ラオスのラオ子。

美味しいものと音楽で、Memento Moriな毎日を。青年海外協力隊2018年度3次隊コミュニティ開発隊員の活動記録兼ラオス情報。

「サンタピアップ」がポイペトの村で続いていきますように

チョムリアップスォー!!

みなさん、こんにちは!ラオスのラオ子です。ラオスのラオ子ですが、今日はカンボジアについてのお話なので、チョムリアップスォーと挨拶してみました。

 

សន្តិភាព

 

突然ですが、「サンタピアップ」という言葉をご存知でしょうか?

 

ラオスに関わりのある方、ほとんど同じ響きの「サンティパープ(ສັນຕິພາບ)」という言葉が、全く同じ意味です、といったら、あ!と気づく方も多いのではないかと思います。

 

「サンタピアップ」とは、カンボジア語で「平和」を意味します。

 

そして、私が2012年から繋がり始めたカンボジアの、首都から遠く離れたタイとの国境付近の町「ポイペト」で活動されている大先輩の法人名でもあります。

 

その「特定非営利活動法人サンタピアップ」さんがこのたび、活動地であるトゥールポンロー村に公民館のような憩いの場を作るべく動きだされましたので、私もサンタピアップさんを応援する一人として、記事にさせていただく次第です。

 

 

「サンタピアップからのお願い」全文

まずは、サンタピアップ代表、古川さんの言葉をそのままこちらに引用させていただきます。

 

【いつも応援していただいているみなさんに、大切なお願いです】

いつも温かいご支援をいただき誠にありがとうございます。
NPO法人サンタピアップ代表の古川沙樹です。
私が初めてポイペトに訪れてから16年が経ちました。
ここ数年の街の発展は目まぐるしく、街の様子もずいぶん変わりました。

現在3か所の経済特区ができ、日系企業の進出も始まっています。
とりわけ2017年12月頃からは中華系の人々が大量に参入し、現在その人口は2年足らずで1万人を超えたと言われています(ポイペト全体の人口約10万人)。

サンタピアップ活動地であるトゥールポンロー村にもその波は押し寄せてきており、
現在トゥールポンロー村は外国人からは「チャイナタウン」と呼ばれ
土地の買い占めが始まり、更地だらけになってしまいました。

子どもたちが当たり前のように遊びまわっていた場所がなくなりはじめています。

サンタピアップではこれまで村の人のご厚意で、土地の一角を無償で借りて活動してきました。
現在の状況を副村長や村の人々と話し合う中で、何とか子どもたちの遊び場を確保したいと思いました。
今、無償で借りている場所も雨風を防げるような場所ではないので、いつでも子どもたちや村の人たちが自由に使える「公民館」のような場所を作りたいと思いました(「サンタピアップハウス(仮称)」)。
関わっている子どもたちの中には、家に居場所がない子もいます。貧困からくる様々な問題に一生懸命耐えている子どもたちが一時でも安心できる場所が必要です。
村の人たちの意思とは別に、目まぐるしく変わってしまう環境の中で、そこだけは変わらない、誰にとっても安心できる居場所を早急に作りたいと思っています。そして日本から子どもたちに会いに来てくださる人との交流の場にできればと思っています。
「サンタピアップハウス」建設にあたって、土地の購入・建築費に約300万円必要です。土地の価格が日に日に高騰しているため早急に土地だけでも確保したいと思っています。
ご存知の通り、サンタピアップでは今までほとんど資金も物も持たずに活動を続けてきました。サンタピアップハウス建設にあたり皆様のご協力を心よりお願いいたします。

2019年6月 NPO法人サンタピアップ代表 古川沙樹

シェアや拡散のご協力も、よろしくお願いいたします。

【振込先】
ゆうちょ銀行
特定非営利活動法人
サンタピアップ
店番458
普通預金
口座番号2662781

郵便振替口座:
(0)0900-7-329383
特定非営利活動法人サンタピアップ

※お振込みいただく際は、お名前ご住所の記入をよろしくお願いします。

※お振込の際、先頭のゼロを追記しない場合もございますので、ご注意下さい。

 

この投稿を見て、私も気持ちばかりですが応援させてもらいました。そして、この活動についてもっとたくさんの人に知ってもらいたいと思い、こうして記事にさせていただくことにしました。

 

まずはカンボジアの歴史について

ポイペトについてのお話にうつるまえに、カンボジアの歴史について少しお話させたいただきます。カンボジアといえば地雷や内戦といったイメージですが、あんまり詳しく知らない!という方は、まずはつっこみどころ満載のこのざっくりまとめを見て頂ければと思います。ご存知の方は次の見出しへ!

 

カンボジア内戦 - Wikipedia

ー1949年フランス領インドシナからの独立~1998年ポルポト死去まで

カンボジア作戦 - Wikipedia

ー1970年のクーデター

クメール・ルージュ - Wikipedia

ー1951年~1999年ごろ

S21 (トゥール・スレン) - Wikipedia

クメール・ルージュが残した内戦の爪痕

 

・・・といいつつ、一部だけ抜き出すのは難しいし、歴史的学説は多々ありますので、Wiki先生に丸投げさせていただきます。

 

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簡単に、ものすごくおおざっぱに言うと、

 

フランス領から独立した後、ノロドム・シハヌークによりカンボジア王国誕生。

国王が癌治療で他国に出向いている間に、

アメリカに支持されていたロン・ノルが王政廃位。

ロン・ノルは反ベトナム派だったため、ベトナム人を強制送還・大量虐殺。

ノロドム・シハヌークは亡命先の北京でカンプチア民族統一戦線を結成。

ロン・ノルに迫害されたノロドム・シハヌークがクメール・ルージュを支持したため

国王を慕う農民のクメール・ルージュ支持層が増加。

政府の腐敗に対する民衆の反発、冷戦下での中国共産党の支持、

そしてアメリカ軍による空爆で、第2次世界大戦で日本に落とされた総量の3倍もの

爆弾を落とされ、数十万の犠牲者を出した上に農地も破壊されて

輸出国から輸入国に転落。

カンボジア民族統一戦線がプノンペン占拠、クメール共和国崩壊。

民主カンプチア誕生。「ポル・ポト政権」による大量虐殺開始。 

 

ポル・ポト率いるクメール・ルージュは完全な原始共産主義を目指し、強制移住、強制労働を行いました。その中で、一切の私財を没収、貨幣そのものや宗教も廃止、暴動や反乱を起こす危険性のある知識人階級を収容・虐殺。それは政治家にとどまらず、教師、医者、僧侶、伝統芸能者などにも及びました。国の発展のためにと海外留学していた人もその対象となったほか、メガネをかけている人(字が読める)、ラジオを持っている人(言葉がわかる)も対象となったと聞いたことがありますが、どこまでが正しい情報なのかは不明です。

 

そして最後は、カンボジア民族統一戦線とベトナム軍によりカンボジア侵攻。民主カンプチアは倒れ、現在のカンボジア人民共和国が成立したのです。

 

 

現地語では「チュンエク」と呼ばれる、プノンペン郊外の「キリングフィールド」。拷問ののちに処刑されることとなった人たちがプノンペン市内で溢れ返り、郊外に作られた処刑場です。

 

ひとつの穴に数百もの遺体を埋め、遺体から発生したガスで地割れがしていたとも言われています。一番有名なこの場所が負の遺産として残されていますが、こうした虐殺場は国内に数百あったともいわれ、正確な犠牲者の数も分かっていません。

 

 

「KILLING TREE AGAINST WHICH EXECUTIONERS BEAT CHILDREN」

 

なんの罪もない子どもたちがこの木にたたきつけられ、殺されました。「子どもの血や脳みそ、髪の毛が幹にこびりついていた」という音声ガイドを聞き、私はこの木の前に立っていられなくなりました。遠い遠い昔の話ではない、私が生まれるほんの少し前の出来事。

 

 

不自然に穴の開いた頭蓋骨の数々は、数十年経ってもなお家族のもとへ帰ることも許されず、キリングフィールドでジェノサイドの残虐さを訴え続けています。

 

 

 

花を手向け、手をあわせましたが、そのとき私は、心に何も浮かんできませんでした。何と思っていいのかもわかりませんでした。こんな感情は生まれて初めてでした。しんどくて、しんどくて、ただ手を合わせて、やすらかに眠ってくださいと願うことしかできませんでした。

 

 

 

その後訪れた「S21」、現在の名を「トゥールスレン虐殺犯罪博物館」。14,000~20,000人が収容され、生き残ったのはそのうち7人、8人ほどだと言われています。

 

 

 

1979年1月にベトナム軍がプノンペンを鎮圧するまで続けられたのは、反革命分子によるむごい「粛清」。拷問器具や血だまりがそのままにされた館内は、もともと学校だったとは思えないおぞましい雰囲気に満ちています。

 

是非訪れてください、と言える場所では、決してありません。でも、もしもプノンペンに行く機会があれば、人生1度だけでも訪れてほしい場所でもあります。

  

ポイペトってどんなとこ?

さて、ここまで、カンボジアの内戦の歴史について触れましたが、ここからは本題に入って「ポイペト」のことを書いてみようと思います。

 

私がはじめてポイペトの村を訪れたのは、2015年4月のこと。トゥールポンロー村や国境付近を案内してもらい、「ポイペトってどんなとこ?全編・後編」というタイトルでブログの記事を書かせてもらいました。まずは、その内容を少し直しつつ、私が見た、聞いた、感じた、ポイペトについて、紹介したいと思います。

 

2015年4月、ポイペトはこんな町

ポイペトは、タイとカンボジアの国境のカンボジア側にある町です。バンコクからアランヤプラテートまではバンやバスで5時間ほど、そこから歩いて国境を渡ればカンボジア側の国境の町ポイペトに到着です。

 

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内戦の影響で隣国のように発展を遂げられなかったカンボジアは、多くの生活インフラと物資をタイとベトナムに頼ってきました。その物流のキーポイントとして発展を遂げているのが、このポイペトの町です。大型のバスやトラックが行き交う危険な国境付近で働くのは、リヤカーで荷物の運搬を行ってお金を稼ぐ人、それを手伝う子どもたち、陸路で国境を越える観光客目当ての商売人。アンコールワットの町シェムリアップへの通過点であることから観光客も多くみられ、物乞いの人たちも国境付近にたくさん居ます。

 

あらゆる社会問題がぎゅっとつまった、カンボジアの縮図ともいうべき、混沌とした世界が広がっているように感じました。

 

内戦後のポイペト

先に書いたように、内戦時代のカンボジアは、言葉にならないほど悲惨なものでした。その戦火を逃れるためカンボジア各地からやってきた人たちは、このタイとの国境付近に住み始めました。その数は日増しに増え、アランヤプラテートとポイペトには大規模な難民キャンプができたそうです。

 

そして、内戦で故郷を追われた人たちを更なる悲劇が襲ったのは、1990年代のこと。タイの資本家が、まだ法の整っていないカンボジアに目をつけ、国境付近にカジノを建設すると言い出したのです。

 

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外貨を獲得したいカンボジア政府はそれに応じました。そして、カジノやホテルを建設するためには、広大な土地が必要となるため、そこに暮らす人たちは立ち退きを余儀無くされました。

 

お話を聞かせていただいたカンボジア人の方が言うには、ある日突然ブルドーザーがやってきて、水や電気などのインフラも整っていない、地雷の撤去も終わっていない、子どもを通わせる学校も無いような代替地に追いやられていったのだそうです。

 

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昼間はネオンの明かりもないし、周りもよく見渡せます。カジノの敷地内はガランとしていて、人もまばら。ところが一歩外に出ると、道も市場も屋台も人で溢れていて、その中で静かに佇む巨大な建物は、ものすごく違和感がありました。

 

ホテルがあり、カジノがあれば、置屋、売春もあります。タイからのブローカーに子供を売る親も居るそうです。そうなると必ず蔓延するのはHIV。国全体で見ると感染者は年々減少傾向にあるものの、支援の手が入りにくい僻地では都市部よりも深刻な問題です。

 

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すぐ近くにはテントがたくさん並んでいて、タイから持ってきたであろう服や雑貨が売られていました。奥のほうには、日本のイベント会場でもよくある、空気で膨らます遊具も。子供たちがボヨンボヨンしながら滑っていました。

 

写真はありませんが、カジノの中にも入ってみました。店員さんはタイ人ばかり。手前の売店には、ブランドものの時計や服、日本のお菓子がたくさん売っているところもありました。日本のお菓子に飢えていた私は、源氏パイやイチゴのお菓子、キャラメルポップコーンなど5つ買い、700バーツを支払ってホクホク顔でカジノを後にしましたが、あとで計算してみたら700バーツって2700円ぐらいですよね。もしかして私、アホなんかなっておもいました。後悔しながらも美味しく頂きました。やっぱり日本のお菓子は美味しい。

 

地雷の博物館、カンボジア

話題を少し変えまして、カンボジアの地雷についても触れてみたいと思います。 内戦時代にカンボジアに埋められた地雷は、いくつぐらいかご存知でしょうか?

 

 

その数なんと、400~600万個。埋設密度は世界一、カンボジアは「地雷の博物館」とも比喩されています。

 

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これはシェムリアップの博物館に展示されていたクレイモア地雷。指向性対人地雷の一種です。

 

ワイヤーにひっかかるか、リモコン操作で信管が反応すると、爆風と共に中から数百個の鉄球が飛び出します。有効加害距離50m、最大加害距離250m。「目の前で爆発したら、何百発もの鉄砲玉を浴びるようなものです」と言われて、背筋が凍りついたのを今でも覚えています。

 

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こちらも、展示されている地雷の数々。展示品の地雷をカンカンカン!!と叩きながら熱心に説明してくださったもんで、信管は処理済だと分かっていても私は終始冷や汗が止まりませんでした。

 

地雷は、残虐性、残存性、無差別性を備えた”悪魔の兵器”。その中で対人地雷は、「怪我を負わせるため」に埋めらました。ズタズタに切り裂かれた手足を見て精神的に追い詰められる。一人の足が吹き飛んで負傷すれば、それを救護するために兵力が裂かれる。その後の治療やリハビリに、家庭にも国にも、経済的負担がかかる。戦力を少なくするためには、死ぬよりも負傷したほうが都合が良いのです。

 

そして、地雷原になった場所には住めなくなり、農耕も出来ません。 地雷は、信管を抜き取るまで半永久的に、じっとそこで待ち続けます。対戦車地雷の真下や真上に対人地雷を置いたり、地雷探知のために除去作業員がプロッター(地雷探知に使う鉄の棒)を斜めに差し込んだときに反応するよう、対戦車地雷のまわりに対人地雷を斜めに埋めたりと、殺傷能力の高い対戦車地雷も工夫されて埋められており、単純に対人地雷だけに気をつければ良いという事ではありません。

 

ポイペトに残る地雷原

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これは、ポイペト郊外の地雷撤去が終わった場所につけられた看板で、CMACという政府機関が立てたものです。地雷を撤去している人の中には、ポルポト時代の兵士も居ます。

アキ・ラー - Wikipedia

シェムリアップにあるアキラ地雷博物館には、ポイペトで撤去された地雷も多数展示されています。(先ほどの地雷の写真はアキラ地雷博物館で撮影させていただいたものです。)

 

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この記事を書いた数ヶ月前には、シェムリアップの郊外にある世界遺産のロリュオス遺跡群近くの公立小学校横の森で、爆発事件がありました。子どもたちが鉄くずを売ろうと不発弾を触ったところ爆発してしまい、4人が酷い裂傷で病院に運ばれたそうです。(ニュースで見た時は亡くなったという情報はありませんでした)また、牛を2匹繋いだ牛車に子ども二人を乗せて走っていた男性が対戦車用地雷を踏んで吹き飛び、みんな亡くなってしまったという痛ましい事故も、私がここに来てからのこと。

 

地雷撤去が終わる=”100%安全な土地"になったというわけではありません。雨季の激しい雨で地雷を覆っていた土が流れてしまうため、地中深くに眠っていて探知機に反応しなかった地雷が出てくることもあるのだそうです。「何個撤去したかではなく、国土の何パーセントが安全な土地になったかが重要」と以前とある方から伺いましたが、こういうニュースを目にするたびに本当にその通りだなと思います。

 

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この荒地の奥に広がっている森は、”あえて”地雷が残されたままになっている場所。国境線上に位置していて、不法入出国を防ぐためと、またいつ勃発するか分からないタイとの国境紛争のためにこのままにされているんだそうです。

 

 まわりには広大なキャッサバ畑が広がる中、誰も手をつけない森。そのすぐ手前のバラック小屋では、そこに暮らす子どもたちがままごとをしながら、見慣れない外国人の私をじっと見ていました。

 

ところでポイペト、水・・・どこ?

 

町の案内をしてもらったあとグーグルマップで確認して驚いたのですが、ポイペトの田舎のほうには、大きな川や溜池がありません。これでは、農業用水はおろか生活用水の確保も難しいでしょう。テレビでよくある「子供が数キロ先まで水を汲みに行く」という話。ポイペトでは実際に行われています。井戸がある家はもちろんそこから汲み上げますが、その井戸を掘るのにもお金がかかります。井戸がなければ、溜池まで水を汲みに行くほかありません。

 

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私が泊めていただいた方の家には井戸があったので、その水が溜められた水がめで水浴びをしました。普段は年末年始の断水以外は何不自由なく過ごさせてもらっている私、ポイペトで久しぶりのカンボジアンスタイルの水浴び。ドキドキ。入社してすぐ電気の無い島で一泊したとき以来です。

 

水がめの中を覗いてはいけません。無心で水を浴びます。「綺麗になった」と思うのです。思うことが、大切なのです。(笑)サロンと呼ばれる布を体に巻いて、家の裏手にある水がめで体を洗う私と友人。慣れた感じで何の躊躇いも無く、そして手際よく水浴びする姿を見てスゴイなあ・・・と感心しながらふと西の空を見たら、燃えるような夕日が。水浴び中なので写真は撮れませんでしたが、草原が夕焼けに染まっていくのを見ながらの水浴びは、なかなかオツだなと思いました。

 

一方で、生活用水が確保できず、水浴も洗濯も出来ない人が、同じ地域に住んでいるんだよな。と、水がめにたっぷり溜められた水を見ながら思ってはみるものの、その中で生きていくのがどれほど大変なことかは、私には想像もできません・・・。

 

貧困、出稼ぎ、そしてまた貧困へ

町に仕事が無い。土地の買占めのあと用意された農地は痩せていて、水も十分に確保できないから、作物が育たない。そうした理由から、この町を拠点としてタイに出稼ぎに行く人が後を絶ちません。しかし、カンボジアのパスポートは135ドルとかなり高額なうえに、首都プノンペンまで取りに行かなくてはならないのです。賃上げストライキを何度も起こした縫製産業の最低賃金でも月収128ドル。(2015年の情報です)

 

去年1月の時点で教師の最低賃金が100ドルです。加えて、交通費や宿泊費もかかります。ポイペトからプノンペンまでカンボジア人が幾らぐらいで行けるのかは私には分かりませんが、出稼ぎにいかないといけないぐらい生活に困っている人からすれば決して安い金額ではないでしょう。

 

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その人たちに残された手段が、タイへの「不法入国」。カンボジア人の出稼ぎ労働者が雇われるのは、建設系の仕事だそうです。ポイペトの村の中には、出稼ぎに行って過労や仕事中の事故で亡くなった方も。そうなったとしても、不法入国している人たちは、何も言えないのです。

 

「仕事中の事故」というのは、足場から落ちたり、モノが上から降ってきたり、あとは電気工事中の感電死もあるとのこと。

 

タイの工業用電圧は380V、日本の200Vよりかなり高い設定です。工業用電圧は、ショッピングモールやホテルの空調設備などにも使われています。日本で電気工事するには国家資格が必要で、試験には実技も含まれています。資格を取ってからも、実際の工事にあたる前にまた講習を受けたり、低圧・高圧それぞれの電圧を扱うための研修を受けるなど、徹底的に教育されるんだそうです。現場で作業にあたるのはそれほど危険なことなんですね。「電源切れてると分かっていても工業用電圧の配線を触るのは怖いよ」と、電気工事士の兄は教えてくれました。

 

タイはカンボジアに比べて、そのあたりの法整備や労働環境、教育も発展しているのでは?と、タイに行く前は思っていましたが、結局は電柱を見上げて「どこも一緒」という結論に至りました。数え切れない本数の電線が繋がれ、余った分もぐるぐる巻きつけられて、千切れた電線が人の背の高さまで垂れ下がっていても誰も気にしない。漏電による火災や、垂れ下がった電線に触れて感電死、といった事は、ここでは特別なことではありません。

 

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バンコクからタイ側の国境までのバスに乗ると、途中で何度か停車します。乗ってくるのはみんなカンボジア人。お正月前ということもあり、大きな荷物を抱えて大勢乗り込んできました。

 

アランヤプラテートの手前に検問があり、そこでバスが一旦停車するとタイ警察がバス内に乗り込んできて、乗客のパスポートをチェックしました。パスポートが無い人はそこで降ろされ、罰金を支払って強制送還。私たちのバスにはそういう人はいませんでした。(いる場合はだいたいもう少し手前で降りて別のルートで行くんだそうです。)

 

国境付近に居れば、荷台に檻がついたトラックに不法入国者が詰められてカンボジアに強制送還させていくのを見ることもあります。ちなみにこの日、タイ側のイミグレは帰省ラッシュが起きていて、カンボジア人であふれ返っていました。パスポートを持って働きに行っている人も結構居るということですね。バスの中には、お腹に6ヶ月の赤ちゃんがいる女性や、小さな子供を抱えた女性も居ました。

 

労働環境や仕事の内容以外にも問題になるのが、強制送還です。雇い主から「後からまとめて支払う」と言われて給料が全額支給されず、建物が完成する直前に警察に通報され未払いのままる強制送還されます。その給料が受け取れることはありません。雇用主のいいように使われても、泣き寝入りするしかないのです。

 

経済特区は雇用を生み、そして町をどう変えるのか

 

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カンボジアにはプノンペンやシハヌークビルなどの主要地に経済特区があります。ここポイペトの経済特区は、プノンペンより大きい386ha。経済特区の周りに民家は無く、農地にもなっていなさそうな平野だけが広がっていました。

 

ここも、もともとは農民が暮らしていた場所だったそうです。カジノ建設の時の買占めと同じように、学校もないインフラも整っていない、そして作物の育たない痩せた土地へと移され、農村部の貧困は更に拡大していきました。

 

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これは敷地内の中ほどから門を撮影したもの。386ha、東京ドーム2個分だそうです。東京ドーム行ったことないから想像がつきませんが、ここはめちゃめちゃ広いです。中にぽつんと建っていた工場では、ポイペトの人たちも働いている様子でした。

 

排水やごみ処理などの環境汚染も含め、この経済特区がどんなふうに発展を遂げていくのか気になります。

 

という、私が見た、聴いた、感じた、カンボジア。

 

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村の人が話してくれたことをまとめた中に「証拠(数字)」を入れようと試みるも、いくら調べてもまったく出てこず。こういう記事で「たくさん」とか「少数ですが」とか

あんまり使いたくないなあ~と何度も何度も頭を悩ませました。(論文だったら床にたたきつけられるレベルだけど、これは論文じゃないので・・・と開き直り。)

自分が見る立場になったらすぐ「ソースは?」って言うのに・・・人に厳しく自分に甘いのはこのこと(笑

 

それでも私が、見たこと、聞いたことをそのまんまお伝えしたのは、「ポイペトで暮らす村の方に伺ったお話」だからです。

 

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視点を変えればもっと別の見方があるのかもしれません。数字で見れば、もっと深刻な問題かもしれないし、もしかしたら取るに足らないことかもしれない。

 

それに、タイでの労働、経済特区、カジノ、地雷、内戦・・・・どれも2日で調べられるような簡単なものではなく、私がここに書く極めて断片的な情報に対して「それは違うよ!」と思う方もいらっしゃるかもしれません。

 

でも、私がお話を伺った人は「そう」感じているのです。複雑に絡み合って生まれた貧困の中で、苦しみながら生きている人がたくさん居るという事実は、確かにここにあったのです。ですから、そういう「一面」があるんだという風に捉えていただければと思います。

 

背伸びして書こうとしたら上手くいかなかったので、言い訳です(笑

 

ほんとうの「貧困」というもの

 

この記事を書きながらずっと自分に問いかけていたことがあります。それは、「貧困」とは何かということ。

 

同じ法のもとに暮らしているにもかかわらず、悪政、天災、個人の病気や怠惰など様々な原因から、生きていくために最低限必要なものが得られないことが貧困だとカンボジアに来るまでは思っていました。

 

ですが、こっちに来て、日本に居るときよりもそういった問題との距離が近くなり、少し考え方が変わりました。

 

生まれた場所、自分、家族、仕事、生活、教育、経済、政治、宗教、文化、健康、それらを包括して「個人の尊厳」が持てない状態を継続してしまうことが「貧困」なのだと、今はそういう風に考えています。

 

先進国と途上国を相対的に比較したステレオタイプな幸福論は、何の意味も成しません。日本には日本の、カンボジアにはカンボジアの価値観があり、良い所も生き辛さも、それぞれにあるのだと思います。

 

ただ、だからといって、それぞれがそれぞれの幸せや生きづらさを抱えて生きるのが良いかといえば、それも違う。その中でできることが必ずある。日本の「便利な生活」とはかけ離れたところで、その場所に住まう人たちと共に暮らし、真摯に向き合い続けるサンタピアップの代表は、言葉で語らず、この町の人たちとの関わりの全てを通じて私に”それ”を教えてくれました。

 

特定非営利活動法人サンタピアップについて

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今回の取材で、サンタピアップで販売している商品の作り手さんの家も一軒一軒まわらせて頂きました。コンクリートで出来た立派な家は一軒もなく、カンボジアでの生活必需品であるバイクも見当たりません。

 

それでも、バラック小屋で暮らす家族のために立派な家を建てるのではなく、一生食べていけるような仕事や、バイク、井戸を与えるのでもなく、いつか自立して、自分の手でそれを掴み取るための基礎教育を受けられるように生活をサポートしていくという長い長い時間がかかる活動が築き上げたコミュニティが、ここにはありました。村の人たちに寄り添った、「尊厳」が守られた活動に、私は感動すら覚えました。

 

シェムリアップのように美味しいレストランがあるわけでもなく、インフラも満足に整っていない、NGO・NPOの支援の手が届きにくい僻地で、現地の人と衣食住を共にしたからこそ見えたもの・分かったことが、たくさんあるんだと思います。そして、それがカンボジアの人たちを深く理解するためのベースになって、この活動のすべてに繋がっているということに気付かせてもらいました。

 

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Give a man a fish and you feed him for a day.

Teach a man to fish and you feed him for a lifetime.

魚を与えれば彼は今日魚が食べられる。

魚の釣り方を教えれば、彼は一生魚が食べられる。

 

よく英語の教科書なんかで出てくることわざですが、まさにそれを体現している関わり方を見せていただきました。「与える」のは1分でも出来るけど、「教える」となるとそうはいかない。この村を訪れたあと改めて咀嚼すると、この諺は単に「与えるのではなく教えなさい」と言っているのではなく、そういう覚悟があるのかを問いかけているように思えてきました。

 

カンボジアの教育事情って実際どうなの?なんで教育支援すべきなの? | 国際協力NGOCBBカンボジア

色々調べているうちに、数字も入れつつ問題の本質を的確に指摘されている記事を見つけました。継続的、持続的な活動の必要性が分かり易く書かれていますので興味がある方はぜひご覧になってください。

 

・・・長く活動しながら、依存しない・されない関係を作るって難しいことだよな。口で言うのはめちゃくちゃ簡単だけど。 

 

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「ボランティア」や「支援」に対する考え方は、100人居れば100通り。答えもひとつではありません。継続的、持続的と口で言うのは簡単だけど、自分の「人生」をそのために使うという決断はなかなかできることではありません。

 

でも、支援をするという事は、良くも悪くもその対象者の「人生」を変えるということ。「活動」を「目的」にせず、あくまで「手段」として、強い信念と覚悟を持って、10年間活動を続けてこられたサンタピアップの活動を見せていただくことができた貴重な機会に、心から感謝します。

  

「ポイペト」と「貧困」

このブログで使った写真はすべて、私が自分の手で撮ってきたものです。インターネットからの拾い物ではありません。つまり、私がここに書いた地雷やカジノのことはポイペトでここ数年の間に起きていることなんです。

 

今日もまた、鬱そうとした地雷原の森では、数え切れない地雷が土の下で誰かが踏むのを待っています。電気の無い村から数キロ離れたカジノ周辺は夜になれば賑やかな音楽とネオンの光で溢れ、お客さんを待つ10代の子どもたちが居ます。本当に、「今」目の前にあるリアルな問題で、解決されない限り「これから」もずっと続くことなんだなと、ポイペトにきて初めて実感しました。

 

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ポイペトに行って初めて知ることができた、今までとは違う”カンボジア”。国境の町特有の問題が作り出した、貧しさ。観光名所が無くなかなか行く機会の無い場所のことだからこそ、せっかく自分が行って、見て、聴いて、写真を撮ってきたんだからこのブログを読んでくださっている方にも伝えたいなあという、それだけの気持ちです。

 

 

 

 

 

 

 

・・・と、ここまでが2015年に書いた記事を改変したものです。

 

この記事を書いた3年後の写真も、ご覧ください。

 

 

カンボジアを離れて日本でふらふら働きながら、JICA海外協力隊に合格したのが2018年2月。そして、サンタピアップ代表と村の人とのかかわり方を見てファインダー越しに心が震えたこの場所を派遣前に訪れたいと、2018年の6月にもう1度ポイペトの町を訪れました。

 

この時は、2次面接でたまたま隣に座った二人(のちに全員合格)と一緒にタイからアランヤプラテートまでのバスに乗り、歩いて国境を越えました。バンコクから5時間ほどかけて着いたアランヤプラテートの町には、2015年に訪れた時にはなかったようなブティックホテルみたいなお洒落ホテルが数軒並んでいて、ショッピングモールまで出来ていました。

 

 

その日の晩は、カジノの近くのレストランへ。雨がしとしと降っていて、オープンエアーが丁度心地よかったのを覚えています。

 

カンボジアといえば空心菜炒め。

 

 

チャーハン。

 

 

えび焼き。

 

 

プーパッポンカレー。

 

 

そしてタワーのビール!

 

と、タイ・カンボジアの美味しい食事が満喫できるのは、ポイペトの中心部だからです。ホテルにはよさそうな雰囲気のルーフトップバーなんかもありました。

 

 

夜まで煌々と電気が灯る市場。

 

 

お昼はこんな感じです。

 

なんだ~!全然綺麗な町じゃん!と感じられたでしょうか。

 

 

これがトゥールポンロー村への道です。2015年に訪れたときは、幹線道路から折れたらそこから村までずーーーっと未舗装の道だったのですが、3年で途中まで道が舗装され、村への移動がかなり楽になっていました。

 

 

こちらが、サンタピアップの活動の場・憩いの場。

 

 

長距離移動の疲れもあり、ハンモックを吊るして爆睡させてもらいました。

 

 

最初に訪れたときに頂いたものと同じ、臭菜のスープと、きくらげのスープをリクエスト。美味しくて美味しくて、この味が忘れられず。臭菜のスープは読んで字のごとくかわった臭いがするんですが、これが美味しい。そして胡椒のきいたきくらげのスープも、とにかくごはんがすすみます。

 

 

”カンボジア風おこのみやき”と例えられる「バンチェウ」も、美味しかったです。この薄焼きにしたクレープに野菜やひき肉をくるんで食べます。ひき肉の味付けがなんとも絶妙。いつか作れるようになりたい。

 

 

さてさて、お昼を食べて腹ごしらえした後は、サンタピアップでミサンガを作っている子どもたちに、ろうびきのひもを使ったミサンガ作りを教えてもらいました。

 

 

「子どもたち」・・・と言っても、3年前会った時はまだ幼げだった彼女たちはもう立派な高校生、綺麗なお姉さんになっていました。時の流れを感じたと共に、あの時と変わらない関係のまま活動を続けている代表を改めて尊敬しました。

 

そしてそのうちの一人は、今はもう大学生。ポイペトの町を出て、学生生活を満喫している様子がSNSからもうかがえます。きっと、ミサンガで子どもたちの教育をサポートするというサンタピアップさんの持続的な活動があってこそ。子どもたちだけでなく、家族とも地域とも深く関わり、そのネットワークの中で、見守ってこられた結果なんだと思います。

 

ちなみにこの写真の手は、私と現地の子・・・ではなく、白いミサンガをしているのが同期隊員、赤いミサンガをしているのが私です。なんでや。ちなみにもう一人の男性同期隊員は、あまりにミサンガがうまく作れず、この時まだ苦戦中でした。

 

実は、虐殺犯罪博物館とキリングフィールドに行くのを6年ほどためらっていた私に、「観光と違う関わり方をするなら知っておいたほうがいい」とすすめてもらったのはこの時でした。協力隊の仲間たちと、バンコクからポイペトへ抜け、シェムリアップで観光して、シハヌークで海鮮を楽しみ、そして最後にプノンペンを訪れる予定で旅程を組んでいて、やっと、向き合おうと思えたのです。この歴史を感じ、活動してきた古川さんの言葉は、私の心にいつもがつんと響きます。

 

ポイペトとトゥールポンロー村のこれから。

 

 

1度目は2015年4月、2度目は2018年6月に訪れたポイペト。町中は変わっても、トゥールポンロー村は何も変わっていませんでした。

 

バナナの葉やジャックフルーツが生り、かわいいカシューアップルや形容しがたい臭さのノニの実もあちこちにあって。赤土と、鮮やかな緑のコントラストが美しい。

 

あちこちで子どもたちが遊ぶ声がして、商店の軒先ではお母さんたちがそれを遠くから見守っている。

 

 

村の人たちの飲み会にも参加させてもらいました。美味しいごはんと冷え冷えのビールでもてなしてくださった村の人たちとは、夜に雷が鳴るまで、喋って、飲んで、歌って、踊って、とてもとても楽しい時間でした。

 

 

でも。

 

この場所がいま、急激に変わりはじめていて、この場所に住まう人々の”くらし”が、望まぬ方向に形を変えようとしています。

 

そして、その中で子どもたちのために新しく居場所を作るために、サンタピアップさんも変わろうとしているのです。

 

サンタピアップさんは、途方もない時間をかけて、地道に信頼関係を築き、組織を大きくすることよりも関わりを深くすることに重きをおかれてきました。日本にはそれを支えるよき理解者が居ることも、活動の様子から伺えます。

 

「身の丈にあった活動を」と、自分の目の届く範囲で地域、家族、そして子どもたちと関わってこられたのを、私はここ5、6年、見させてもらってきました。そして今回、このような呼びかけをされたということは、サンタピアップさんにとって、とても大きな、そして大切な決断なのだと思います。


それはつまり、めまぐるしく変化していくポイペトの町の波がトゥールポンロー村にも押し寄せて、この村をとりまく環境が、本当に、大きく大きく変わろうとしているということ。

 

それに抗うことも難しい現実がある中で、子どもたちを守るために公民館をつくりたいと動き始めたサンタピアップさんの活動を、私はこれからも、ほんの少しですが応援していきたいと思っています。

 

さいごに

 

この長文を最後まで読んで下さった方、ありがとうございます。冒頭にもリンクを貼らせていただいた通り、サンタピアップさんは今、村の子どもたちの安息の場をつくるべく、日本とカンボジアの二拠点で活動を続けられています。

santapiup | from CAMBODIA for CAMBODIAhttp://santapiup.com/

今回の資金協力に活動にご賛同いただける方は、WebサイトやFBページで詳しい内容をご覧ください。

 

カンボジアと関わるまで、安易にお金を渡してそれで満足したような気持ちになることにとても抵抗があり、私はドネーションそのものをある意味毛嫌いしていました。

 

でも今は違います。

 

大好きになったカンボジアがそこにあって、カンボジアのために獅子奮迅している友達や大先輩が居て、その人たちが成し遂げたいことには、ときにお金が必要で。

 

大好きなカンボジアのために、カンボジアで頑張る人たちのために、そしてその人たちが共に暮らしているカンボジアの人々のために、ほんの気持ちばかりですが、募金したり、物を買って、その活動を応援するということに、今は何の抵抗もありません。

 

そんな風に思える人たちに出会えたことが、あの国で過ごした2年間のすべてだと思っています。本当に、幸せなことです。

 

私自身、JICA海外協力隊への参加を決めてから人生で初めて「国際協力」というフィールドで活動することになり、ここラオスで4か月過ごしてみて、沙樹ちゃんの活動がどれほど途方もない時間と努力の上にあるのかを更に実感することになりました。私には到底追い付けないサンタピアップさんの新たなステップを、お隣ラオスから応援し、自分も1歩でも近づけるように日々半歩ずつでも頑張っていこうと思います。

 

 

 

「ラオ子がそこまで言うなら」と思ってくださる方が一人でも居ればという思いで、この記事を書きました。拡散だけでも歓迎です。どうか、大好きなカンボジアと、そこで暮らす大好きな人たちのために、力を貸してください。

 

このプロジェクトが一刻も早く実現して、

 

「サンタピアップ(平和)」がこの村でずっと続いていきますように。